300年続く女人禁止の伝統を切り開いたねぶた師・北村麻子インタビュー

300年続く女人禁止の伝統を切り開いたねぶた師・北村麻子インタビュー

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威風堂々とした山車(ねぶた)の迫力で、全国的にも高い人気を誇る、青森市の夏の風物詩『青森ねぶた祭』。2012年、この荒々しい祭の世界に、一つの事件が起きました。約300年続くとされるその歴史で初となる、女性ねぶた師・北村麻子さんの誕生です。

巨大な山車の構想から制作までを手掛け、歴史上の合戦など荒々しいモチーフを描くねぶた師の仕事はこれまで「男性の仕事」とされ、女性が関われる範囲は限られていました。そんななかで彼女は卓越した技術だけでなく、新しい世代ならではの感性とアイデア力を発揮し、デビュー作『琢鹿(たくろく)の戦い』は新人として異例の優秀制作者賞を受賞します。

一つのスタイルを守り続ける印象もある伝統の世界に、新しい担い手が参入することの意味とは何なのか? 新世代のねぶた師としての表現のこだわりや、出産、育児といった母親業との両立の難しさとは? 300年の伝統のなかで開拓者として未踏の地を進む、等身大の北村さんに訊きました。


取材・文:杉原環樹 撮影:柴田康生
プロフィール

北村麻子(きたむら あさこ)
1982年生まれ、史上初の女性ねぶた師。父親であり、数々の功績を残すねぶた師の第一人者、六代目「ねぶた名人」の北村隆に師事。2007年、父親の制作した大型ねぶた『聖人聖徳太子』(『ねぶた大賞』受賞)に感銘を受け、ねぶた師を志す。2012年「青森市民ねぶた実行委員会」から依頼されデビュー。そのデビュー作『琢鹿(たくろく)の戦い』が新人としては異例の優秀制作者賞を受賞したことで注目される。2015年『平将門と執金剛神』で優秀制作者賞、観光コンベンション賞を受賞。2015年、第一子を出産。2016年『陰陽師、妖怪退治』で優秀制作者賞、商工会議所会頭賞を受賞。
http://www.ak-nebuta.com/
いろんな仕事を経験した上で初めて夢中になれたのがねぶた師の仕事。だから、悔しくても辛くても頑張り抜ける。
―史上初の女性ねぶた師として、2012年にデビューされた北村さんですが、今日はその後の話も伺いたいと考えています。まず、北村さんの後に続く女性ねぶた師の方はもう生まれているのでしょうか?

北村:ねぶた師はいませんが、父(著名なねぶた師・北村隆)のお弟子さんに女性がいて、私のねぶた制作にもスタッフとして携わってもらっています。これまで女性は「紙貼り」しかやらせてもらえず、「色つけ」や「骨組み作り」は男性の仕事だったんですが、最近は女性が色つけをすることも増えました。それは私のデビューとは関係なく、自然とそのような流れになってきた感じです。

北村麻子
―そもそも、ねぶた制作が男性の仕事だった背景には、何があったんですか?

北村:ねぶたは、もともと町内の男の人たちが集まって、朝までお酒を飲みながら作っていたんです(笑)。だから、女性が入れる世界じゃなかったし、男性側も入れたくないという名残りがあったと思います。実際、作業は力仕事ですし、テーマ的にも男性的な「荒々しさ」を描くことが多いので、「女にそれができるのか?」と考えられていたんですね。

―そんな「男性だけの世界」でもあった、ねぶたの伝統を北村さんは切り開かれたわけですが、著名なねぶた師である父・北村隆さんから受けた影響もありましたか?

北村:もちろん影響は大きいです。子どものころから、ねぶた師の父を誇りに感じていましたし、祭でもたくさんの人が「すごいね!」って声をかけてくれました。ただ、2007年頃に父が足を悪くして、引退するかもしれないと、すごく怖くなった時期があったんです。その困難を乗り越えて父が制作した『聖人聖徳太子』(2007年)というねぶたの素晴らしさに衝撃を受け、父が何十年もかけて培った技術を絶やしちゃいけないと感じたことが、私自身、ねぶた師を志すきっかけになりました。

北村隆『聖人聖徳太子』(2007年)
―修行時代には、前例のない女性弟子ということもあり、かなり悔しい思いもされたと伺いました。

北村:周りもどうすればいいのかわからなかったんでしょうね。後輩の男性のお弟子さんが教わっていることすらも私は教えてもらえず、本当に悔しかったです。それと、はしごを登るだけで、周りから「大丈夫?」と過度に心配されることも辛かった。いまでは逆に「もっと気を遣ってよ!」という感じですけど(笑)。

―(笑)。そんな辛さのなかでも、3年間の修行を続けられたのは?

北村:やっぱりねぶたが好きだからです。私はこの世界に入るまで、事務や販売など、いろんな仕事をしたんですけど、どの仕事も長く続きませんでした。小さい頃から、夢中になれるものがまったくなくて、生まれて初めて、自分からやりたいと思ったことが「ねぶた」だったんです。だから、悔しくて泣いたこともありましたけど、「なにくそ!」という気持ちが上回っていたんでしょうね。

北村麻子『陰陽師、妖怪退治』(2016年)

北村麻子『陰陽師、妖怪退治(部分)』(2016年)
父に反対されるのが怖かったので、いまだに「ねぶた師になりたい」とは一言も口にしていません(笑)。
―ものすごく「理不尽」な経験をされてきたと思うのですが、そんな状況を乗り越えるために気をつけたことはありますか?

北村:どの世界でも同じだと思うんですけど、自分の存在を認めてもらえないとき、すぐに環境を変えるのは無理だと思うんです。時間をかけて、職場の人たちに自分が取り組む姿を見せて、徐々にわかってもらうしかない。私の場合「ねぶた師になりたい」という強い気持ちは人に馬鹿にされるようなものでもないし、周囲にもいつか絶対わかってもらえるという自信があったので、がむしゃらに目の前のことに専念したんです。

―師匠であるお父さんには、どのように弟子入り希望を伝えたのですか?

北村:本気さを伝えるために、最初は見よう見まねで下絵を描いて、父に見せたりもしました。だけど、真っ向から反対されるのが怖かったので、「ねぶた師になりたい」とは一度も伝えなかったんです。「なりたい」と言わなければ、反対もできないじゃないですか。だから、いまだに「ねぶた師になりたい」とは一言も口にしていません(笑)。

―(笑)。じゃあ、そのまま「しれっと」現場に入って行かれたんですか?

北村:そうなんです(笑)。ただ、ねぶた小屋に行けばいろいろ教えてもらえると甘く考えていたのですが、いざ現場に行ったら全然相手にされなくて1年が終わってしまったんです。それで次の年から、ほかのお弟子さんへの指示を盗み聞きして、必死に工程を覚え、3年目でようやく徐々に仕事を任せてもらえるようになりましたね。

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