日本酒を守り続けること、未来へつなぐこと。家系図を見て、家業を継ぐ覚悟が決まった

日本酒を守り続けること、未来へつなぐこと。家系図を見て、家業を継ぐ覚悟が決まった

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日本酒メーカーの家に生まれて

新潟県長岡市で生まれました。実家は天保13年から続く日本酒の蔵元です。蔵元というと特別な暮らしと思われることも多いのですが、家の周りには味噌や醤油の蔵元がたくさんあって、町の中では普通だったんです。家族の住居の隣に蔵があって、日本酒の蔵のほかに、おじいちゃんが趣味で集めていた仏像を飾るための蔵もありました。

小さい頃は、蔵に入ると、タンクの上をのぞきこまないようにと杜氏さんたちに注意されていました。日本酒が発酵すると、タンクの真上が酸欠状態になるので、その空気を吸い込むと危ないんです。蔵に入るときは「納豆食べてないよね?」と確認してから。納豆菌を蔵に持ち込んでしまうとお酒に影響がでてしまうからです。蔵にはエアコンがなくて、夏は暑くて冬は寒い、蔵ができた時代と同じ室内環境ですね。

そういった暮らしは、私にとって当たり前の日常でした。私は三人姉妹の長女なんですが、日本酒の蔵を何か特別のことだと思っていなかったせいか、「継ぐ」ということを意識していませんでした。

日本酒メーカーですが、私が産まれたときから祖父は政治家でしたし、父も引き継ぐように選挙に出て、政治家になりました。蔵元というより、政治家の家という感覚のほうが強かったかもしれません。子どもの頃は、選挙カーから自分の家族の名前が呼ばれるのが恥ずかしくて、下を向いていました。

会社は、父が議員になってからは母が全部引き受けていました。主婦だった母が、突然会社の経営を一手に任されたので、大変だったと思います。子どもの頃からその姿を見てきたおかげで、「女も仕事をするもの」という意識が自然と身につきました。

家業を継ぐなんて考えていなかった

小学校時代は内向的な子どもだったのですが、中学に入ってからは、友達に恵まれたこともあって、ずいぶん積極的になったと思います。高校に進学してからは、文系に進みました。進学校だったので、まわりのみんなと同じように受験勉強をして、都内の私立大学に合格。経済学部に入学したのですが、文系だったので、じゃあ経済がいいかなと思っただけです。

東京での学生生活は、典型的な女子大生といった感じでした。テニスサークルに入って、居酒屋でバイトをして、ほどほどに勉強する。東京の人ごみや忙しさに慣れなかったのも最初の1年だけで、あとは楽しかったですね。海外に興味があったので、就職が決まった後に、バンクーバーに短期の語学留学もしました。

学生の間は、飲み会があっても日本酒は飲まないし、実家のことはまったく意識しませんでした。親からも何も言われなかったこともあって、家業を継ぐなんて考えていませんでした。無責任な話ですよね。

大学卒業後は商社に就職。当時はまだ目新しかったネットワークセキュリティ関係の担当を任されました。仕事は楽しかったのですが、1年弱で結婚、妊娠。退職して、しばらく子育てに専念しました。

ただ、完全に家庭に入る感覚はありませんでした。母の影響があってか、何かしらの仕事をしている方がしっくり来たんです。子育てが落ち着いたら、また働きに出たいと思っていました。

中越地震発生。私の運命が変わった

二人目の子を妊娠中、中越地震が発生しました。実家は建物がすごく古いので、大きな被害を受けました。庭の石塀は全て崩れ、蔵もふたつ倒壊。長屋みたいになっているのですが、3割位は倒壊しました。幸い、家族も従業員も外にいたので無事でした。

夫と妹ふたりがすぐに手伝いに行ったのですが、家族みんなが蔵の片付けをしている時に、かなり大きな余震が起きました。連絡も取れず、蔵が潰れてしまったんじゃないかと不安でした。

家族は無事でしたが、かなりの量のお酒は割れてしまいました。酒造りをすぐに再開することができず、売上はガクッと落ちました。母は、それから復興に向けて頑張っていたのですが、3年ほど経った時、「会社をたたもうと思う」と連絡をもらいました。今あるお酒を売り、新しい造りはしないという話でした。

私は何も家業に携わってこなかったので、止めることは出来ないと思いました。「ああ、そうなんだ。結局、何も関われなかったな。こんなに近くにいるのに、何にもしないで終わってしまうのか。残念だな」という、気持ちでした。だからと言って、「もう少し頑張って」とは言えませんでした。大変なのは見て分かっていたし、手伝っていたわけでもなかったので。

その時、アメリカにいた三女が猛反対しました。「留学から帰って私がやる」と言うんです。ちょうど、一個大きな契約が終わりそうになっていたのですが、「とにかくその契約だけは切らないようにしておいて」と、一言だけ言われて。母と私の間では、「会社をたたむのだから、ちょうどいいタイミングだったんだね」なんて話をしていたんですけど、妹からは「1ヶ月位片付けをしたら帰るから、とにかくその契約だけは何とかしといてね」と。無鉄砲で強引、でも強い意志のある子でした。

私は、その契約を継続するために手伝いました。その後、実際に妹が日本に帰って来て、びっくりしましたね。専門学校を出てすぐに海外に行って、ずっとそうやって世界を飛び回って、日本には帰ってこない子だと、勝手に思っていたんです。まさか家業を継ぐなんて思っていませんでした。お酒を海外に輸出したいという気持ちがあったみたいなんですけど、私には驚きしかなかったです。

妹ひとりにやらせるわけにはいかない。そう思って、私も手伝うことにしました。7歳も年が離れているので、「あの子が?」という、どうしても子どもを見る目になっちゃったんです。そこそこ大人だったんですけど、「まだ社会経験もないのに、大丈夫?」という、親心に近い気持ちでした。

また、私は何も言わずに手を上げて逃げ出そうとした罪悪感もありました。妹がきちんと継いでやっていけるようになるまで、その手伝いをしようと。ずっとやるとは思っていなかったですね。

そこからが大変でした。営業の経験なんてまったくない私たちが、あちこちの酒屋さんや百貨店を回り、商品を置いてもらうようにお願いして回りました。門前払いされることなんてしょっちゅう。常識はずれなこともしていました。それでも、「なんとかしなきゃ」の一心でした。

そんな私たちがあぶなっかしかったのか、徐々に同業の方、取引先の方が色々教えてくれるようになりました。新しい出会いが増え、新しい販路が増えていく。そうして一歩ずつ、営業のやり方を覚えていきました。

妹の突然の死。私が継ぐしかない

姉妹で手探りで始めた東京での営業活動は、なんとかうまくいくようになり、徐々に手ごたえも感じていきました。妹とは、「素人のふたりでやっても限界があるから、経験のある営業マンの人に入社してもらおう」、などと話し合って、その方にいろいろ教わったり。「お酒のつくり手がいても、売れなければ意味がない。私たちが東京で販路を広げていかなければ」と、一緒にいろいろ考えていました。

ところが、ふたりで営業活動を始めて5年ほど経ったとき、その妹が、亡くなくなりました。突然のことでした。なんて表現すればいいかわからない気持ちでした。「悲しい」とか、そういう言葉では言い表すことのできない、深い闇の中に突き落とされた感じでした。

母が、こちらが見ていられないほど落ち込んでしまいました。会社を一手に担っていた母が仕事ができなくなり、一時期会社は回らなくなっていました。実家に帰っていた私も仕事に手がつかず、とにかく、出荷作業のような手を動かす仕事だけを淡々とやっていました。

そんなとき、親戚の人たちが、私たちを励ましてくれました。祖父はきょうだいがたくさんいて、今まであまり会ったこともないような親戚が、「すぐに乗り越えるのは難しい、悲しみと共に生きていくしかない。でも、時間が癒してくれるよ」と言ってくれました。戦争を経験したり、ちょっとした病気で子どもが亡くなってしまったりする大変な時代をくぐり抜けてきた人たちなので、言葉の厚みが違いました。

また、「ずっと感謝していたんだよ」と言われました。会社を、親戚のみんなにとっての実家を潰さずに残していることへの感謝でした。「だから、がんばってね」と。

色々な親戚と話すうちに、祖父のきょうだいは何人いたのか気になって、戸籍を調べることにしました。役所に行くと、戦前の手書きの戸籍謄本が出てきました。解読するのも大変だったのですが、たくさんの人の名が連なって、「この人が会社をつくったんだ、この人があの蔵をつくったんだ、この人があの蔵を増築したんだ・・・」と、みんなが会社を続けるためにがんばってきたことが、家系図を見ただけで伝わってきました。

祖父は13人きょうだいで、そのうち12人が女性なんです。私も三姉妹で、女系の血が強い家系らしくて。若くして亡くなる人も多い時代。跡継ぎの男の子を生むために、何人も子どもを産んだんですよね。家業は潰せない。何とかしよう。そういう想いが、今とは比べられないくらい強かったんだと伝わってきました。

これは、簡単にやめるなんて言えない。家を継ぐ覚悟が決まりました。中越地震で一度会社をたたもうとしたときに、妹が猛反対してやめるなと言ったことが一番大きいんですけれど、それだけじゃなく、ものすごい大きなものをバックに抱えているんだから、自分の意思でどうのこうのという問題じゃないと感じました。

それまでは、家を継ぐことから、何となく逃げている部分もありましたが、この時に覚悟が決まりました。「私が継ぐ。次期当主になる」と家族に伝えました。

私の使命は「つないでいくこと」

現在は、長谷川酒造の次期当主として、東京都内を中心に、試飲販売や日本酒イベントでのプロモーションなどを行っています。次期当主といっても、まだ母が現役ですし、やっていること自体は以前と変わりません。酒造りに直接携わっていないので、私の仕事はあくまで販売することと考えています。それでも、次期当主という覚悟のようなものがあるので、気持ちの上では以前とまったく違いますね。

私たちの会社は、家族で経営する小さな蔵元です。たくさんのお酒を造ることはできません。また手作業に頼る部分が大きく、出荷までには本当に手間がかかっています。ですから、お求めやすい価格で、というのはうちの蔵にとっては難しいんです。

その分、小さな蔵だからこそできる「顔の見える酒造メーカー」を目指して、お客様と会話しながらお酒を楽しんでいただきたいと思っています。試飲販売はエンドユーザーのお客様と直接会話ができる貴重な機会です。

お酒の話だけでなく、子育てのことや近況などもしますね。お酒には会話を弾ませてくれる力があります。そんな風に親しくなったお客様は、「次はどこへ行くの?」と別の場所にも来てくださったり、イベントに参加してくださったり。日本酒って、自分が気に入ったお酒ができるとコアなファンになってくださることが多いんです。一人でも多くの方に長谷川酒造のファンになっていただきたいと思っています。

しばらくは東京での営業活動を続けて、子どもがもう少し大きくなった段階で、新潟に戻れたらと思います。

私の使命は、今まで受け継がれてきたものをつないでいくこと。日本酒は日本の文化であり、伝統です。家業だからというだけでなく、文化を守るという意味でも、日本酒のおいしさをみなさんに伝えていきたいと思っています。

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