中学受験の失敗、旅と人、本、そして震災。挫折と出会いから学んだ自分らしい働き方。

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人とは違うラベルで生きる

大阪府高槻市に長男として生まれました。6歳下の妹がいます。両親共にそれなりにいい大学を出ていたので、子どもの頃は「可能性を広げるために、いい学校に行った方がいい」との教育方針で、中学お受験組として小学校3年生くらいから塾に行かされていました。

さらに塾の宿題だけじゃなく、親父の宿題にも追われていました。当時、『自由自在』というごっつい参考書があって、それを使って親父が宿題を出すんです。他にも、突然、志賀直哉全集を渡されて「あらすじと感想を400字にまとめろ」とか言われるんです。猛勉強していましたが、活発な性格だったし、勉強嫌いだったので、そういう生活はとてもストレスでした。

しかも、中学受験に失敗するんです。それで小6のときに、親にキレた。「落ちたのはお前らのせいだ、俺の3年間を返せ!」と。周りのみんなが遊んでいるときに、僕は勉強していましたからね。そこから「ボクサーになる」と宣言したのですが、これは親が一番なってほしくないものだったからです。分かりやすい話ですが、中学時代はグレていましたね(笑)。

それでも、小学生時代の勉強貯金があったので、テストでは9割以下の点数を取ったことはありませんでした。テストの点数はだけは良くて、親や先生には反抗するいやな生徒だったんです。

ところが、中2のときに、テストの点数が8割を切ってしまったんです。その時、親に頭を下げて、もう一回塾に行かせてくれと頼みました。勉強ができないということは、選択肢が狭まるような気がしたんですね。例えば、京大に行けばボクサーにも学者にもなれる可能性があるけど、ボクサーを目指して進学しなかったら学者にはなれないよね、という感じです。

それから勉強をして、進学校に進みましたが、高校では勉強しないと決めました。小中と勉強ばかりしてきたので、もういいやと思ったんです。何のために勉強するのかも分からなかったですし。テストの点を取るための勉強はしないと決め、その代わりに自分で本を読んだり、歴史を調べたりしていました。

先生も「お前はそうやって自由に生きていくのが良いよ」といって、いろんな本を薦めてくれるんです。この頃から、「勉強をして、いい大学に入って、いい会社に入る」みたいな一般的に良しとされる生き方ではない、別のラベルで生きるようになったんです。

考えるのが好き

高校時代に遠藤周作の『深い川』という、インドの話が載っている本を読み「今までとは違う価値観に触れたい」と思い、進学先はアジアの言語や文化を学べる大学を探しました。その中で、自分の学力でも行けそうな大学のタイ語専攻に進学。その大学では古典インド語(サンスクリット語)の講座もあって、そこに行けばインドに関しても勉強できるだろう、という安易な考えでした。

この頃、将来は物書きになりたいと思っていました。いろんなところへ行って、自らが体験したことを伝えるような本を書きたいと。それは、戸井十月さんという作家の影響でした。彼は、バイクで世界中を旅して、そこで出会った人を紹介する本を書いていたんですよね。

そうやって色々なところを旅して、人と会う生活をしたい。そう思い、大学時代はバックパック旅や日本をバイクで回る旅によく出ました。

海外ではよく僻地に行きましたね。日本ではできない体験をしたり、日本では得られない価値観に触れたりするのが好きだったんです。実体験の中から、「こういうこともあるんだ」と気づけるんです。

一番思い出に残っているのは、ネパールのカラパタールという高度5600mの場所まで歩いた時のことです。エベレストのベースキャンプが5000mのところにあるので、アイスピッキングなど、特殊な装備なしで人が登れる最高峰の場所です。空気がとても薄く、歩くたびにゼイゼイいうような環境。約1か月かけて、登るのはすごく大変でした。

ですが、ふと空を見上げると、空の透明度が下界とぜんぜん違うんです。昔の人はこういうのを見て「神様がいる」と思ったんだろうな、なんて感じました。

また、海外に行く度に、日本とは違う価値観に触れるのですが、その違いがどうして生まれるのか、いつも考えていました。

例えば、インドでチャイを飲む際に、素焼きの器で飲むのですが、飲んだ後、その器は割って、捨てるのです。なので、道端にはたくさんの壊れた器が散乱していました。日本だったら、道にゴミ捨てるなと言われているのですが、みんな当たり前のようにポイ捨て。その背景には、インドには「捨てた器を集める役割」や「壊れた器からまた新しい器をつくる役割」を持つ人がいることがあります。器を捨てて、その器が拾われ、また新しい器が造られる、というサイクルが当たり前になっていて、翌日にはきれいになっているんです。

この文化の違いが生まれた背景には「カースト制度の影響があるのかな」「根源には、あらゆるものを活かすという考え方があるからなのかな」といった具合に、彼らの立場を想像して、思考を紐解いていくのが楽しかったです。

一方で、日本をバイクで回っているときは、いかにして多くの友達を作るかを考えていました。行く先々でテントを張り、現地の人と一緒にお酒を飲み交わしたり。そこで出会う人の話を聞いて、世の中にはいろんな人生を歩んでいる人がいること、幸せのかたちもそれぞれであることを感じました。

そうやって体験したこと、感じたことを本にしたいと思っていましたが、どうしたら作家になれるのかは、よく分かっていませんでした。作家になれる会社なんてなかったので、就職活動はしませんでした。とにかく自分で書きながらやっていくしかないと思っていました。

今振り返ると、当時の僕は、本を書くために人に会っていたのか、それとも、人に会いたいから本を書きたいと言っていたのか、どちらか分かりませんね。むしろ、バイクで旅しながら人に会うのが好きで、それを続けるために本を書きたかったのかもしれません。

物書きではなく広告業界に

大学卒業後、バイク関係のパンフレットを作る会社にアルバイトで入ったんですが、3カ月くらいでクビになりました。自分は社会に順応できないんじゃないかとショックを受けましたね。

その後、編集プロダクションで、3年ほどライターとして働きました。そこでかなり現実を知ることができました。飲食系の雑誌で取材をすることが多かったんですが、1件取材に行っても原稿料が5000円とかで、全然お金にならいんですよね。

そんな生活をしている時に、浅田次郎が直木賞を取ったというニュースが目に飛び込んできました。彼は、30年間、日の目を浴びないまま4畳半の部屋で書き続けたそうです。それを聞いて、作家になるのは諦めることにしました。自分にそこまでの情熱があるのか、と考えたら「無いな」とあっさり思ったんです。貧乏生活を続けるのは無理だなと。

ただ、作家になろうとは思わなくなりましたが、文章を書くような仕事は続けたいという気持ちはありました。人の話を聞いて文章にすることは好きだったんです。

けれど、この生活は続けられないので、稼げるようにならなきゃいけない。そこで目をつけたのが、広告の仕事でした。広告で文章を書いた方が、同じ文章でも単価が上がるんですよね。

そして、広告をつくるスキルをつけるため、転職することにしました。転職先は、リクリートメディアコミュニケーションズ(現リクルートコミュニケーションズ)という会社です。大企業なのに私服の変な人がいて面白そうだし、裁量を持って仕事をすれば将来のキャリアが広がりそうだと思ったんですね。

転職して最初の数年間は、契約社員として不動産広告で文章を書いていました。住まいを買う人が増えるためには何をすればいいか考え、目をつけたのは街の人へのインタビューでした。企業側が「この街ってこんなに素晴らしいんです」と言うよりも、実際に住んでいる人の声の方が説得力があるじゃないですか。それで、住人に突撃インタビューをして、街の魅力を聞くことで広告を作っていきました。

当時、同じようなことをしている人は他にあまりいなかったので、次第に、「街の人にインタビューをするのが得意な人」「住民の声を聞くプロ」といった立ち位置を確立することができたんです。

3年経ち正社員になる頃、東京に転勤しました。どうせビジネスの世界で勝負するなら、動くお金がより大きい東京で勝負したいと思ったんです。

仕事は引き続き、手を変え、品を変え、言い方を変え、場所を変え、「住民の声を集めて広告にする」ことでした。手法は変化していて、短時間でたくさんの人を集めて一気に声を聞くために、イベントも手掛けるようになりました。5時間で100人の声を聞くなら、イベントにしちゃったほうが手っ取り早いじゃないですか。

マンションや地域の住民がやりたいことを取りまとめて、企業の予算でイベントを開くんです。様々なワークショップや、気球を上げるイベントなんかを開催しましたね。

コミュニティを作る意味

上京してから新浦安に住んでいたのですが、2011年3月、東日本大震災が起きると、新浦安は液状化でかなり大変なことになってしまいました。嫁と子供を関西に帰して、僕は1週間位ホテルで生活して、少し落ち着いたタイミングで家に帰りました。

すると、近所の人たちはマスクを着けて掃除をしているんです。「粉塵や放射能があるかもしれないから、マスクをつけたほうが良いよ」と。言われた時は、「余計なお世話だな」と思ったんですけど、家の中の片付けを終えて外に出ようとしたら、玄関の取っ手に山ほどマスクがおいてあったんです。すぐに「あの人だ!」と思い、お礼を言いに行こうと思いました。

ところが、その人がどこに住んでいるのか分らないんです。その時、近くに暮らしている人に「ありがとう」も言えないような街の環境や社会システムって、良くないと思ったんですね。

人と繋がれることって、集合住宅を選ぶ一つの理由じゃないですか。経済合理性の観点だけじゃなくて、コミュニティを作ること自体が価値なんだなって気づいたんです。

それから、自分の仕事への捉え方が変わりました。僕がやってきた仕事、地域の人と行うイベントは、街の人の声を集めて広告としてお金に還元するだけじゃなくて、人が繋がる場所を作る意味もあるんじゃないかなと。

同時に、「自分はこれまで一体何をしてきたのか」という想いも湧きました。僕は住まいを中心にソーシャ・キャピタルをテーマに、日本の地域コミュニティのあり方を変えられるような仕事が本当はできるはずなのに、社会の価値になることをまったく、本気では考えていなかったんですよね。SNSが流行っているから「これからはソーシャルが大事です」なんて言っていましたが、気持ちはこもっていませんでした。そんなことをして何の意味があったんかと思ったんです。

もちろん、自分の中ではその場その場でベストを選んでいたつもりですが、これからは社会に対して価値のあることをしないと意味がないと思い始めたんですね。世の中の人にとって良いことが、ずっと続くような取り組みです。

「働く」ためのソーシャルキャピタル

それから、自分が世の中や社会に対していかに価値を発揮できるか、ということを軸に仕事を組み立てています。管理職として一時期は現場から離れたんですが、価値を提供するためには現場で働いたほうがいいと判断して、またプレイヤーに戻ることにしました。

現在は、「横断ビジネスソリューショングループ」という組織を立ち上げて、社内外を横断してビジネスを生み出す仕事をしています。キーワードは「共創」です。いろんな人を巻き込んでみんなで楽しくやりながら、社会にとって価値あるものをどうやって作るかを考えています。

例えば、地域の分野では、街をどうやって盛り上げていくか、といったプロジェクトをやりました。不動産でやっていた、街の人を巻き込んで新しい価値を作るというものの延長線にあるようなイメージですが、様々な人とチームを作り、どうすれば住民の愛着がわくマンションを作れるか考え、そのための実行支援も行い、予算をどうやってつけるかということまでやります。

分野は、街づくりに限っていません。今は化粧品会社のプロジェクトをやっています。ただ、共創というのはあくまで手段でしかないので、共創を通じて何を実現していくのか、その目的をプロジェクトごとに一つひとつ考えているところです。

これまでは、「地域」という分野でソーシャルキャピタルを作っていたのが、「働く」という分野のソーシャルキャピタルを作ることに価値を求めているのかもしれません。それが、個人としての新たな挑戦なのかもしれないですね。

また、僕自身、単純に、知らない人と会って話を聞くのが好きなんですよね。学生時代に旅をして人の話を聞いていたり、それを本にして伝えようとしていた感覚に近いかもしれません。実は、社内論文コンテストで一等賞を取ったりもしていて、今でも本を書きたい気持ちはあるんですよね。

とにかく、人の話を聞いて、会う人同士を繋げるのが好きなんですね。だから、将来的には、ビルを一棟借りて、壁一面にこれまで出会った人の名刺を貼って、その場で人を繋げるようなことをしたいですね。話を聞いて「それならこの人紹介するよ」みたいな、ベンチャービルみたいなイメージです。それを本業にしちゃうと、「紹介しなきゃ稼げない」という気持ちが先に出てきてしまいそうなので、やるならあくまで副業で、ですね。そこに関しては、純粋な気持ちでやりたいんです。

自分がやるべきこと。自分がやれること。自分のやったことの影響範囲。今はこの3つのバランスが取れていて、アイデアが次々と湧いてきて、仕事するのが楽しくて仕方ないですね。これからもいろんな人と関わりながら、社会にとって価値あるものを生み出し続けたいですね。

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