『ぼけますから、よろしくお願いします。』認知症の母を撮影した監督の想い

『ぼけますから、よろしくお願いします。』認知症の母を撮影した監督の想い

2018年11月9日公開

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家族や親族の介護を理由に仕事を離れる「介護離職」。総務省が2018年に発表した「平成29年就業構造基本調査」によると、2016年10月から2017年9月までの1年間で、約9万9,000人が介護離職をしており、その8割にあたる7万5,000人が女性だといいます。

4年前、母親が認知症と診断されたテレビディレクターの信友直子さんもまた、介護離職の悩みに直面した一人。しかし、結果として故郷の広島へは戻らず、東京で働き続けることを選びます。

いつしか信友さんは、帰省のたびに、認知症になった母、そして母に寄り添う父の姿をビデオカメラで記録し始めました。それが2016年にテレビドキュメンタリーとして放映されると大反響を呼び、2018年11月より映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』として公開されるに至りました。

ファインダー越しの「引いた視点」でご両親を見ることで、多くのことに気づいたという信友さん。今回、このドキュメンタリーを撮影することで、初めて知った父親の頼もしい姿、あらためて感じた親子の絆など、「前向きな発見」がたくさんあったと言います。そこには、将来、私たちが親の介護に直面したときのヒントになるような救いやアドバイスが詰まっていました。

取材・文:榎並紀行(やじろべえ)
撮影:玉村敬太
プロフィール

信友 直子
テレビディレクター。1961年広島県呉市生まれ。1984年東京大学文学部卒業。1984年森永製菓株式会社入社。1986年、映像制作会社に転職。フジテレビ『NONFIX』や『ザ・ノンフィクション』で数多くのドキュメンタリー番組を手掛ける。『NONFIX 青山世多加』で放送文化基金賞奨励賞、『ザ・ノンフィクション おっぱいと東京タワー〜私の乳がん日記』でニューヨークフェスティバル銀賞、ギャラクシー賞奨励賞を受賞。ほかにも、北朝鮮拉致問題、ひきこもり、若年認知症、ネットカフェ難民などの社会的なテーマから、アキバ系や草食男子などの生態という現代社会の一面を切り取ってきた。
2013年、広島で暮らす母が認知症になった
――まず、ドキュメンタリー映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』を撮った理由を教えてください。

信友:もともとは、私が家庭用のビデオカメラで家族の記録を残すために、両親の姿を撮り始めたのがきっかけでした。

ところが、2013年頃から、母の様子がどんどんおかしくなっていったんです。私の仕事はテレビディレクターなので、直感的にありのままの母と、母を支える父の様子を撮影し続けて、かたちに残すことが使命だと思いました。

信友直子さん
――2013年頃、お母さまはどのような様子だったのでしょうか?

信友:当時、広島で暮らす母とは週に何度か電話でやりとりしていました。いつからか、前回の電話で私が話したことをまったく覚えていなかったり、何度も同じ話を繰り返したり、「あれ?」と思うことが増えていったんです。

最初は「その話、この前も聞いたよ~」なんて笑っていたんですが、そのうち笑いごとではないのかもと思うようになりました。これは帰省したときに一度、きちんと検査したほうがいいのではないかと。

信友さんのお母さま(左)とお父さま(右) (c) 「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会
――検査を受け、お母さまがアルツハイマー型認知症と診断されたとき、信友さんはどのように受け止めましたか?

信友:そうだろうなという思いと、やはり信じたくないという思い、半分半分でしたね。ただ、同時にどこか安心したような気持ちもありました。
――それはなぜですか?

信友:アルツハイマーはできるだけ早く薬を飲ませることで、進行を遅らせることができます。正式に診断されたことで、ちゃんと治療が始められるんですね。

――診断を受けたとき、お父さまとはどんなお話をされましたか?

信友:薬の副作用も心配だし、父には「実家に戻ろうか?」と言いました。でも、父は「それはわしの役目だから、お前は東京で自分の仕事をしなさい」と。

じつは、それまでも父からは、やりたい仕事をずっとやり続けなさいと言われてきました。父は、若い頃にやりたかった言語学の研究を戦争や家庭の事情で諦めざるをえなかったので、その無念を娘には絶対味わわせたくないと思ってくれていたようで。

ですから、母が認知症になったことで私が仕事を辞めて実家に戻るのは、父自身にとっても悔しいことなんですよね。

――信友さんは、ご自身の進退についてどのように考えましたか?

信友:正直に言うと、東京で仕事を続けられるなら続けたいとは思っていました。地元で都合よく仕事が見つかるかわからないし、介護しているあいだは両親の年金や貯金に頼るとしても、介護が終わったあと、50歳をすぎても仕事は見つかるんだろうか。そういった金銭的な不安もありました。

それに、そのときは母の状態もそこまで深刻なものではありませんでした。父から免罪符をもらい安心したような気持ちはあったと思います。
他者に頼ったほうが、「なにかあったとき」でも安心できる

――当時はドキュメンタリー番組の制作に携わっておられたそうですが、やはり相当な忙しさだったんでしょうか?

信友:じつは、そうでもありませんでした。20代30代の頃はそれこそ寝る間を惜しんで働いていましたが、2007年に乳がんになってから働き方を変えたんです。身体を壊すような働き方はやめて、適度に休みながらマイペースにやろうと。

立場的にもフリーランスでしたし、東京に家族がいるわけでもないし、広島に帰ろうと思えば帰れたんですよね、でも、父の言葉に甘えさせてもらった。フリーとはいえ取材で何日も地方に滞在することもありますし、いまの仕事を続ける限り、実家でずっと母と一緒にいることはやはり難しいので。

――介護サービスを利用するという手もあったのではないかと思いますが。

信友:はい。私としては、介護認定を受けて、ヘルパーさんに来てもらったり、デイサービスを利用してもらったりするのがいいと考えていました。父が信頼できないというわけではなく、他者の目が入ったほうが安心できることもあると思うからです。

たとえば電話で「こっちは大丈夫だから心配するな」と言われても、じつは娘を心配させまいとそう言っているだけかもしれませんよね。

でも、母は「人を家に入れると気を遣うからいやだ」と言うし、父も「人の世話にはなりたくない」と頑なに拒否するので、しばらくは介護認定を受けずにいたんです。そのあいだはすごく心配で、毎日電話していましたし、帰る頻度も増えました。

そのあいだ、母はできることがどんどん減っていきました。洗濯物を溜めてしまったり、ゴミの分別ができなくなったり。鍋を火にかけたまま放置して、焦がしてしまったこともありました。父は、そんな母のさまざまな失敗に業を煮やして、代わりに家事全般を行うようになったんです。

――家事全般をお父さまがやるようになってから、お母さまはどのような様子でしたか?

信友:母は専業主婦で、家事全般を完璧にこなしていたのですが、認知症になり、できることも少なくなってしまいました。自信を失ってしまったのか、家のなかで寝転がっていることが多くなりましたね。

自分の状態がおかしいという自覚はあったようで、取り乱し、ときには暴力もふるいながら「私はバカになった」「どうしたらいいのか」と不安を訴えることもありました。

私も、はじめはそんな母の様子を見て動揺し、一緒に泣き、母を抱きしめながら慰めたこともあります。母の気持ちを想像し、精神的に辛くなっていた時期もありましたね。

家のなかで寝転がる信友さんのお母さま (c) 「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会
――いまも介護サービスは受けていないんですか?

信友:いえ、認知症と診断されてから2年後に介護認定を受けたので、それからは週1回ずつデイサービスとヘルパーさん、あとは、医療保険を使い、近所の外科に足腰のリハビリへ送迎つきで通っています。週4回、介護や医療のプロの目が入るようになったので、不安は少しずつ解消されていきましたね。何かあれば、すぐに教えてもらえるので。

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